コラムニストになるために書く訓練をするのだ!!!

日々のニュースを私的視点から(なまくらですが)切り込む !! 1分ぐらいで読める分量を意識して書いています。 コメント欄で議論をしあえる場を作っていけたらなと思っています。

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犯罪被害者等基本計画について

政府は27日午前の閣議で、事件・事故の被害者らを支援するための犯罪被害者等基本計画を決定した。その中には、罪被害者の実名を発表するか、匿名とするかを警察が判断するとの項目も盛り込んでいる。

これについては、メディア側から「権力のチェックができなくなる」など大きな反発が出ている。
一方マスコミでは一切触れられないが、ブログや掲示板に書かれている意見などを見れば「メディアのおごりだ」「メディアと警察とどちらも信用できない」などといった声が大きく、議論の分かれるところである。

これについては、これらを含んだ法律が国会に提出された時点で詳しく書こうと思うが、とりあえずあまり話されることのないひとつの仮定というものを今回は書かせていただこうと思う。

もし、この項目を含んだ法律が成立した場合、警察はどんどんと実名発表しない場合を増やしていくだろう。なぜなら、そちらのほうが邪魔でないし、殺到するマスコミに対しての警備もしなくてすむようになるからだ。
そうなると、メディアは自分たちで犯罪被害者の実名を探し当てなければならなくなる
一番困るのはテレビだろう。一から自分たちで動いて取材するというのも不得意な分野であろうし、一から取材するようになれば、時間も経費もよりかかるようになってしまい、ニュースを扱う番組にとっては大きな負担となる。
そうなれば、今でさえまともなニュース番組というものが少ないにもかかわらずもっと廃れていくだろう。かわりに、被害者のない芸能、グルメ、そして政治家の広報といったどうでもいいものばかりが並ぶ報道番組ばかりになってしまうだろう。
また、マスメディアはこれではいけないと、負担を少しでも減らすために情報の共有化をより増やしていくだろう。そうなると、情報を持っているのは一部のマスコミだけ、しかもそこから出てくるニュースはすべて同じという事態になりかねない。

今までの報道のあり方がメディア不信を生んできたことが間違いないが、そのメディア不信がより悪い報道を作り、それによりまたメディア不信を増幅させる。このような負のスパイラルにもはや陥ってしまっているのではないだろうか?
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フィギアスケートに思う日本社会

昨日25日、トリノオリンピック代表最終選考会を兼ねたフィギアスケートの全日本選手権が行なわれ、女子フィギアスケート代表に荒川、安藤、村主の3選手が選ばれた。
注目の15歳の浅田真央は年齢制限により今回のオリンピックには出場しないことが決定した。

浅田をオリンピックにという声は昨年の全日本選手権で、若干14歳ながら2位に入ったことから徐々に大きくなりだし、今月のグランプリファイナルで優勝したことにより最高潮に達した。
テレビのスポーツニュースでも連日取り上げられ、日本スケート連盟には抗議と嘆願のメールが数百通も届いたという。
確かに、オリンピックという舞台であのかわいらしい15歳の少女が演技するところが見たいという気持ちはわかるし、この規則自体に疑問が残る。
しかし、これらを差し引いたとしても日本の社会やマスコミに巣くうひとつの問題点が見てとれる。
一点を見つめることによって、ルールや他者というものを完全に視野から外してしまいがちなのだ。
他の選手や関係者たちはこれらのルールを基に練習をつんできたわけだし、また海外でもそのようなルールがあるということは周知の事実なのだ。
であるにもかかわらず、これらを無視して自分たちの気持ちだけを押し付け、希望を実現しないものに対して批判を繰り返すというのは自分しか見えていない子供と一緒だと言われても仕方がない。

このような傾向は他にも靖国神社の問題にもあてはまるのではないか。
そもそも国際社会に復帰するため1951年にサンフランシスコ平和条約に調印する際、東京裁判を受け入れることを記載し、それに調印している。つまり東京裁判を日本が受け入れたというのは国際的なルールで、そのルールを基に他の国は日本と今まで付き合ってきたのだ。
にもかかわらず、それらを無視するような靖国史観を首相が追認する行為を行うというのは完全に国際ルールの違反で、それらを基に日本と付き合ってきた他者(外国)に対する気遣いがないといえる。
しかし、日本のマスコミや社会は戦死者やその遺族、そして日本人としてのアイデンティティに対する気持ちだけに焦点をあててしまい、ルールや他者というものを完全に視野からはずしてしまっているのだ。
であるので、日本の首相のいう言葉が海外には理解されないのだ。

フィギアスケートグランプリファイナル後に安倍官房長官が 「素晴らしい演技だ。日本の選手が国際舞台で全くものおじせず、能力をすべて出せるようになった。世界トップの評価を得た選手が(トリノ五輪に)出られないとすれば残念だ」と語り、その後小泉首相が「あれだけ見事な演技だから、優秀な人にはどんどん出てもらった方が五輪も盛り上がると思う」と述べたことは、実によくこのことを表しているではないか

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人口減少問題について

今年の出生数は106万7千人で、死亡数107万7千人を下回り、終戦前後のデータのない時期を除けば、1899(明治三十二)年以来、初めて人口が減少することが22日の厚生省の発表によりわかった。

このような人口減少になったのは今回初めてのことであるが、現在の出生率が1.29であることを考えればいずれはこういう状況になることは誰の目からも明らかである。
そして、少子化対策として必ずといっていいほど言われるのは、「児童福祉の拡充」と「女性の出産できる社会作り」である。

しかし私はこれに対して異論を唱えたい。
確かに、現在子供を持つ親への負担は大きく、また社会が女性の出産を手助けする社会になっているとは言いがたい。そこに問題があるということはわたしもそのとおりだと思う。
しかし、それらはただ問題に対して単純なアプローチしかしていないのである。

まず、「児童福祉の拡充」であるが、皆さんにも経験があるだろうが、「隣の~くんが塾に行ってるからうちの子も」や「みんなこのおもちゃ持ってるから買ってあげないと」とか、今では「クラスみんな携帯持ってるから」とかいう形で子供にかかる費用というのは、周りとの比較によって変化していくものである。ということは、たとえ児童福祉を増やしたとしても、余裕ができた分だけ子供にかける経費も大きくなって、ただその水準が上がるだけであると思う。
となると、名目経費はより増えることになり、むしろ少子化の方向に進むのではないかという危険さえある。

次に「女性の出産できる社会作り」であるが、これを言う人は大抵、外国の例を出して「アメリカではこうで、イギリスではこうだ」という言い方をする。しかし、そこにおける提案というのは「それをまねすべきだ」というのにとどまり、具体的提案など皆無に近い。社会的なベースが異なるということと、外国における問題点などがすっかり落ちてしまっているのだ。それでは、今の形で動いている社会というものを変えることが出来るほど説得力を持たない。これについてはいろいろと述べたいことがあるのでまたいつか述べようと思う。

では、どうすればいいのか?
わたしは、今の「子供を生まないことに対する後ろめたさや負担がない社会」が一番の問題だと思う。
今までの日本においてこのような状態というのはまずなかったと思う。子供がいなければ親戚や村から圧力がかかり、将来も安定していないのが昔の日本であった。
しかし、いまや子供がいない分だけ自分たちにお金をかけることができ、優雅に過ごすことができる。それでは、やはり子供なんて増えないであろう。
出産手当や児童手当といったものよりは、子供がいないものへの税金を高くし、少しでも子供を生むように追い詰めていくしか方法がないのではないだろうか

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米国産牛肉再開について

今月、米国やカナダからの牛肉の輸入再開が決まり、すでに関西の焼肉店などでは米国産牛肉を提供はじめた。

 米国産牛肉は2003年12月、カナダ産は同年五月から輸入が中断されていた。両国で牛海綿状脳症(BSE)の病原体である異常プリオンに感染した牛が確認されたためである。内閣府の食品安全委員会は足かけ二年審議し、北米産と国産牛肉のリスクの差は「非常に小さい」との結論をまとめた。これを受けて農水、厚労省は輸入再開にGOサインを出した。

 このような経緯をたどったということは日本国民の大半は知っており、また米国の圧力によってこうなったというのも知っている。

 そこで私はひとつの予想を立ててみる。たぶんこれから米国産牛肉はこのように扱われるのではないだろうか。
まず、生肉などは米国産牛肉と表示されるよう徹底されるであろうから、スーパーなどではきっちりと表示→消費者はあえて危ない米国産を買わない→在庫がだぶつく→スーパーでも弁当や惣菜などに、わからないように潜ませられる。→スーパーなどへの出荷が滞り、価格が下落→外食産業が安さに惹かれ入荷。→表示しないでレストランや弁当などに使われる。

つまり、すべてわからない形で売られるように考えられる。

いま、表立って米国産牛肉を使うことを宣言している焼肉店や吉野家などはむしろ良心的なのではないか。この状況で表明していることから、大々的に店にも「米国産牛肉を使ってます」という張り紙や看板を置くだろう。であるので、消費者がいやならば食べなくてもよいという選択ができる。
だが、知らないうちに外食している店で米国産牛肉が使われていたのでは防ぎようがない。

そこで、私はひとつの提案をする。
牛肉が使われているすべての食事、弁当、既製品にタバコのパッケージに書かれている「あなたの健康を損なう恐れがあります。」のように、「狂牛病になる恐れがあります」という紙やシールを添付しなければならないとしてはどうだろうか?
その上で、国産やオーストラリア産など全頭検査している牛肉を使ってる場合は店側が何らかの表示をするようにすればどうだろうか?
それならば、米国産牛肉が潜むということがなくなるだろう。

それくらいのことをしなければ、今の行政の監視体制を継続していくのは難しいだろう。

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増税について(まとめ編)

「今回の増税についてどう思いますか?」
「今の国や地方の財政状況を見れば、やむをえないことなんじゃないですかね」
テレビの一般インタビューでよく見かけるシーンだ。
大体7人くらいのインタビューの中で、2,3人はこういうことを言っている。中でもサラリーマン風の男性がこう述べているシーンが目立つ。いかにも今の社会を理解していて、それを冷静に分析しているといった風だ。ただ、政府が言っていることをなぞっているに過ぎないのに・・・

確かに、現在の国と地方の債務残高は760兆円を越え、国民一人当たり600万円の借金を背負わされている(詳しくは『日本の借金』時計というサイトをご覧下さい。今、私がどんなホラー映画なんかよりも恐ろしく、背筋が凍るような印象を受けるサイトです。)ことを考えると、何とかしてこれらの借金を返していかねばならないと考えるのは当然かもしれない。

しかし、このような借金大国になったのは昨日今日のことではなく、こつこつと貯金ではなく借金を重ねていった結果であり、こうなることは予想されていたのだ。
では、数年前からの税制改定はすべて増税路線を走ってきたのかと言うと、そうではない。
数年前からの与党税制改正大綱をまとめているサイトhttp://allabout.co.jp/finance/inheritance/closeup/CU20051215A/index.htm
をみればわかるのだが、景気対策と名をうった減税路線を進めてきたのだ。しかも、それらを詳しく見てみると、相続税率の引き下げや贈与税の基礎控除額の引き上げ、株式譲渡の際の税率の引き下げなど、まるで景気対策とは関係のないお金持ちばかりを優遇するような制度に作り変えようとしてきたのだ。
これは少し考えれば誰でもわかることだが、政治家やその周りの人たちに有利になるように自分たちで税制をいじってきたのだ。
また、それでも国民から反対の声が小さいと知ると17年度大綱では政治献金控除を拡大させるなど、目に見えて自らの利益になるような減税まで記載している。

このような自分たちのことしか考えない減税を行っていながら、立ち行かなくなったからといって定率減税を廃止するなど庶民に対して増税を課すのはどう考えてもおかしい。
しかし政府、与党が言うのは上のような「やむをえない」論なのである。

こんなばかげた税制改悪についてまで物分りのいい日本人である必要はない。

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増税について(タバコ税編)

今回は、自民、公明両党が15日に決定した2006年度の与党税制改正大綱について、私なりの意見を述べさせてもらおうと考え、文章を作ってみたのだがブログとして出すにはあまりに長くて、読むのに疲れてしまいそうだったので2回に分けて述べさせていただく。
と言っても単純に2分しても面白くないので、今回はタバコ税に絞って述べていこうと思う。

誤解のないように最初に述べておくが、私はまったくタバコは吸わないし、同席する人が無断でタバコを吸いだすと腹を立てるほどの大の嫌煙家である。
そんな私から見ても、今回のタバコ税の値上げには疑問がある。

第一に今回のタバコ税値上げは、児童手当の拡充のためになし崩し的になされたのではないかということだ。
現在、自民党と連立政権を組んでいる公明党にとって児童手当の拡充は公約の一つである。選挙のときなど、日頃から公明党にお世話になってる自民党としては、何らかのご褒美としてこれくらいは認めないといけない、との政治判断から児童手当の拡充を認めようとしたが、財源がない。それならば何らかの税金を増やそうじゃないか。という流れが今回のタバコ税増税からは見てとれる。
つまり、政府が自らの保身のために我々に負担を強いているのだ。このような恣意的な増税というものを認めてよいのだろうか?

第二にそもそも税調は、タバコ税の増税を見送るつもりであったのに、なぜ一転して増税を決定する事態になったのかということだ。
これには、小泉首相の意志が大きく絡んでいるという。いまや党内の誰も意見を言うことが出来なくなった小泉首相の意志は絶対になり、「聖域」だった税調までも小泉の言うことを聞かなくてはならなくなったと言うのだ。
そもそも、国民生活に大きく関わる税調が「聖域」であること自体おかしな話であるが、元聖域の住人たちは声を揃えて、「小泉に逆らえば国民の声に反する」という風なことをいい、白旗を上げている。
では、本当にタバコ税増税は国民の声なのか?
たしかに、テレビの一般インタビューや新聞の投稿欄などを見ても、「私は吸わないから、タバコ税増税大賛成」という論調が目立ち、愛煙家はそもそも後ろめたい気持ちがあるので反論できないでいる。
しかし、個人的理由から意志を示しているものを捉えて、それが国民の声だとするのは間違っていないだろうか?
それならば、マイノリティーが存在し得ない社会になってしまうのではないか?

そもそも、とりやすいとこから取るという考え方が貧相で今の政治家たちの底が知れる。
ましてや、新人議員たちが83会なるものを作り、出してきた案が、誰でも考えられるこのタバコ税増税だというのだから、あきれかえって空いた口がふさがらない。

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女系天皇容認論について

 ここ数日の間に、共同、毎日、読売といった大手メディアが皇室典範について、一般のアンケートをとっているので今回はそれを紹介しながら話をしていきたい。

           共同     毎日    読売
女性天皇賛成   75・3%  85%   73%
女系の天皇容認  71・9%  71%  60%
長子優先       43・3%  54%  37%

まとめるとこのようになり、大体似た感じの数字が出ているので、ここら辺が世間の思っていることとみて間違いないだろう。

まず7割から8割の日本人が賛成している女性天皇であるが、これについては過去にも持統天皇、孝極天皇など女性が天皇になった例が見当たるので、これに関しては私も賛成である。

しかし女系の天皇を容認するということに関しては少し趣が異なる。
いままで、天皇という制度が発足して以来、全て男系の天皇しか認めてこられなかったのだから、これを壊すというのは大きな問題ではないか?

こんなことを書けばいろいろとクレームをつける人もいるかとは思うが、私は天皇というものを一種の文化遺産と同じように捕らえている。
日本国憲法上「象徴」とされている天皇は、私にとっては五重塔や金閣寺といった文化遺産と同様の意味合いを持っているのではないかと思う。
つまり、そこに歴史があるから税金をかけてまで守っていくべきものと考えている。

そして、そのような歴史があるからこそ人々から親しまれ得るのではないか?
例えば金閣寺にしても、当時のつくりと全く別物にして、金閣寺と同じところに作ったからといって誰か観に来る人はいるだろうか?
池田屋跡が無残にもパチンコ屋になってしまっているので、だれも観にこないことを思えばすぐに解る事ではないか

天皇家が親しまれなくなって、天皇制がなくなったとしても私には全く持って関係ないが、一つの文化遺産を失うというのは日本国民としては少し寂しく感じる。

フリーランスフェスティバル寸評

12月10日に前にも告知させていただいたように、東京大学の弥生講堂でフリーランス・フェスティバルが開催されました。
フリーのジャーナリスト、フォトグラファー、映画監督、作家などが一堂に会してフリーと言うものがどういうものか、そして未来に向けてどのようにしていくべきかを話し、なかなかおもしろいイベントになったのではないかと思います。

その中で、私が最も感銘を受けたのは、最後の一言のところで東京大学の情報学環長である花田先生が「こういうシンポジウムを開くことが、私のフリーランスに対するコミットである」という言葉である。
こういうフリーの会合などでは往々にして学者、特に日本でその頂点にいる東京大学の教授などは批判の標的になりやすく、一方、内部からも批判するようなものにお金を出して、シンポジウムを開くことへの批判というものがおこりかねないのだ。
それらを覚悟して、このようなシンポジウムをひらいたことに対する賞賛はもっとあってもよいのではないか?

今後も年に1度くらい、こういうイベントを行っていきたいとレセプションの席でおっしゃっておられた。
ぜひともこういう機会を何度も作っていただくことを強く願う。

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ニイタカヤマノボルナ

12月8日、わたしは作家の吉岡忍さん、吉田司さん、映像作家の森達也さんらとともに靖国神社まで行ってきた。
朝日、東京、共同通信、また各地方紙が伝えたので、目にしていただいた方もいるかとは思う。
http://www.sankei.co.jp/news/051208/sha077.htm

この行動は、戦争ができる国になろうとしている今の日本のながれにたいして、本当にそれでいいのかを問い、そうではない方向を提案していくために始めた行動である。
そして、その手始めとして、靖国に眠るとされている戦争でなくなった軍人などに手紙を送るという形で日本の現状についてどう思うかということを問うという行動からはじめたものです。
詳しくは、http://www.shukenzaimin.net/ を見てください。

まだ駆け出しの私には、このような文章を書くお誘いはきませんでしたが、書いてもいいといわれた場合は出す用意だけはしており、また靖国まで一緒に行動して次のような手紙をあててきました。一部ですが紹介します。

私と同じくらいの年齢で死んでいった多くの若者たちへ

今から35年ほど前、「戦争を知らない子供たち」という歌が巷に流れていました。ちょうどそのころベトナム戦争はカンボジア、ラオスにまで戦火は拡大し、アメリカ軍としてはにっちもさっちもいかなくなり、そこで行われている戦闘における生々しい情報が流れ出したころでした。
しかし、私が生まれた1980年にはすでにベトナム戦争も収束していました。つまり私たちは「ベトナム戦争を知らない子供たち」なのです。私たちが知っている戦争はといえば湾岸戦争、アフガン侵略戦争、そしてイラク戦争などといった、ただミサイルが飛んでいき、アメリカ軍の戦車が堂々と進行し、開放を喜ぶ市民にあふれかえる映像を見せ付けられる戦争ばかりなのです。

われわれ若者に言って下さい。あなたの感じた戦場の色、臭い、感覚は映像からは遠くかけ離れたものであり、いかにむごたらしいものかということを。

(中略)

今年の8月15日私は初めて靖国神社に行きました。25歳の私はあなたたちにどう見えましたか?
小泉信吉海軍主計大尉のように父親から「我々両親は、君に満足し、君をわが子にすることを何よりの誇りとしている。僕は若し生まれ替わって妻を選べといわれたら、幾度でも君のお母様を選ぶ。同様に、若しもわが子を選ぶということが出来るものなら、我々二人は必ず君を選ぶ。」といわれるような25歳でもないですし、植村眞久大尉のように、家系を絶やさないように、戦争に行く前に子供を作っておく、と考えれるような25歳でもありません。
駆け出しの私はあなたたちから見れば、ずいぶんひ弱で情けなく見えたでしょう。

しかし、私は言うことができます。あなたたちが本当は言いたかったが、いえなかった反戦のこの言葉を。

「ニイタカヤマノボルナ」と

血税という言葉の響き

「われわれの血税をいったいどう思っているんでしょうね」
ニュースのキャスターやワイドショーの司会者がたびたび使うこの血税という語句には、わたしは前々から強い違和感を覚えている。

血税の「血」という文字から税金を納めるために働いている、強制的に働かせているという意味合いが浮かび上がってくるからだ。
確かに血税という語句を辞書で引いてみると、「血のにじむような努力をして働き、納めた大切な税金」とかかれており、大切だということを強調したいキャスターにとっては最適な言葉かもしれない。
しかし、血税という言葉が初めて使われたのは明治5年(1872年)の徴兵令『太政官布告』で、兵役義務を「血税」と称したこととされている。この血税という表現をめぐっては、政府に生血を取られると思った民衆たちが一揆を起こしたという歴史さえある。
つまり、血税という言葉は徴兵の際に使われており、文字通り「血なまぐさい」意味合いがあるのだ。また政府からの命令という形で使われたのだから上のような違和感を覚えるのも致し方ない。

また、この血税という言葉が頻繁に出てくるときというのは、公務員の明らかな汚職の時であり、その額は小額(小額といっても数千万から数億というわれわれ一般人にとっては大金であるが)であり、まるでテレビが悪を見張っている、正義の保安官を気取っているときなのだ。
確かに公務員の汚職によって私的に税金を使うというのは見逃すことのできないことである。
しかし、政府がおこなっている桁の違う税金の無駄遣いというものに対して見逃しているではないか。
たとえば、この日本の中で何パーセントの人がイラクの自衛隊派遣によってかかった費用というものを知っているだろう?
小泉総理が靖国神社に参拝することによる対中貿易の鈍化によって、本来得られたはずの税金というものがどれくらい失われたかを試算したテレビ局はあるだろうか?

政府はイラク派兵の再延長を決定した。しかし血税という言葉を使うことはおろか、派兵によって費やされる税金に触れるようなメディアは皆無だ。

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12月10日フリーランスフェスティバル

今週の土曜日、東京大学農学部一条ホールでフリーランスフェスティバルという催し物が開催されます。
詳細はhttp://www.iii.u-tokyo.ac.jp/research/symposium/2005/10.html

フリーといえば皆さんの中には「大手メディアに就職できなかった人たち」とか「マスメディアの補完の役割しかしていない」と思われる方がいるかもしれませんがとんでもありません。
実際に話を聞いてみるとよくわかるのですが、たいていの人は「今の組織内ジャーナリズムの中では重要なことでも伝えることができないことが多い」という理由からフリーになっています。
また記事を書くにおいても、例えば朝日新聞の記者ならば自分がジャーナリストであるということより朝日新聞社員であるということを前提に記事を書かねばなりませんが、フリーならば自分の信条をストレートに表現することができます。
そういう意味で最も本来のジャーナリスト活動をしているのはフリーのジャーナリストたちといっても過言ではないでしょう。
東京大学もなんとなくそういう雰囲気を感じたので、いまフリーをクローズアップしてみようということになったのだと思います。

今日は告知のみになってしまいましたが、是非フリーの人たちの声を一度聞いてみてください。
そうすると自分の中で今の社会がまた違った形で見えてくると思います。

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いかに子供を守るか

「通学路」がまた狙われた。
広島市の小学一年生の女児に続いて、栃木県で行方不明となっていた女児が茨城県の山中で遺体で見つかった。

事件の詳細についてはここで書くよりもマスメディアのほうがより詳細に伝えることができるであろうから割愛させていただくが、やはり目に付くのはまたもや被害者が小学一年生の女児であることだ。
一年ほど前の奈良の女児殺害事件のときの被害者も小学一年生の女児であった。

なぜこれほどまでに小学一年生の女児が狙われるのか?
思うに幼稚園や保育所のころはスクールバスなどで大人が送り迎えしていたが、小学生になりひとりで登下校するようになり大人の目から離れたからであろう。また、小学生高学年くらいになれば不審者に対する警戒も強まってくるのであるが、まだ絵本やアニメと現実の区別があいまいな小学生低学年には警戒感が弱いのも一員であろう。
まさに、一番無防備であるところを卑劣な犯人たちは狙ってきているのだ。

しかし、だからといって小学生にもスクールバスを用意するというような大人の管理を厳しくしていかねばという論調には私は素直には賛成し得ない。
このページをみている皆さんにも経験があるだろうが、学校からの帰り道で思わぬ発見をしたり、失敗したり、友達と羽目をはずして親に怒られたりと学校や家では学ぶことのできない自立していく上で大切なものが登下校中にはたくさんあることを経験的に知っているからだ。

かといってこれを野放しにしておくべきではないとも思う。非常に難しい問題である。

今一番必要なのは個別の学校で具体的にいかに取り組むかを親と話し合うことではないか。
東京の文科省の人間では、事件が続発している郊外の小学生の様子など知らないのだから、国の対策などは当てにしてはいけない。

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